2020.05.18
「かづの北限の桃」の産地として名を知られるようになった我らが鹿角市だが、そもそもは県内有数のりんごの名産地だ。
鹿角市史によると、明治8年に国の勧業寮(日本国内の農商工を奨励するために内閣府に設置された部署)から、外国果樹穀菜等試植の目的で、秋田県にもさまざまな苗や種などが届けられたという。鹿角でもその試作や試験が行われ、りんごの苗木が5本届いたことが鹿角りんごの始まりだろう。明治9年、13年と栽培を試みたが失敗、伐採されてしまった。その後、明治19年に佐藤要之助が400本の苗木を購入、植栽したのが、鹿角りんごの礎を築いたとされている。その当時の主力品種は「柳玉」(りゅうぎょく)だった。佐藤要之助のりんご栽培成果が見え始めた明治23年ころには、相次いでりんご栽培をする農家が増え、東北本線の開通によって東京市場への出荷も始まったのだった。
鹿角のりんごは当時から肉質が緻密で糖分が高く、長期貯蔵に耐えられるという点で高く評価された。明治11年から始まった秋田県種苗交換会(種子交換会)においても、明治23年に初めて1等を受賞。以後、内国勧業博覧会、果実品評会と数々の出品において好成績を収め、産地として成長していった。
そもそも、鹿角が産地として認められるまでには、一体どんな苦悩、試行錯誤があったのだろうか? 今回は、鹿角を語る上で欠かせない「りんご」について改めて見つめ直してみよう。
佐藤要之助
佐藤要之助は、南部藩給人であった佐藤新之助の長男。花輪仲小路の大地主で「佐新さん」と敬称された名家の出だ。苗木400本のうち、優良種だった「柳玉」が100本程度入っていたことが、要之助のりんご園経営を有利に導いたといわれているという。
資料提供:鹿角市教育委員会